今日は、実に変なタイトルになってしまったがそれにはそれなりの理由が・・・・・
最近お仲間になって頂いているくじらいだーさんがまた足跡を残してくれた。
大変嬉しかった。
ブログってもんの楽しさを最近ひしひしとかみしめている。
くじらいだーさんは大阪で素人落語会をやられているそうで、福島でアマチュアバンドを続けているワタシにとっては、ある意味「芸能活動」的な共通点もあり、更に嬉しかった。
・・・・・ワタシもバンドやって30年経ったのか?と振り返ってみたりした。
落語と言えば、昔の町工場には「与太郎」的な従業員が結構居た。
一寸差別用語になってしまうが、知恵遅れの方々のそれである。
親方や社長は「しょうがねぇな」と言いながら・・・・・・
一生懸命仕事をしようとしている、愛嬌に溢れた彼らと楽しそうに仕事をしていた姿を思い出す。
コストだ何だとつまらない事を言わない、人情に溢れていたあの時代の事である。
そんな方々の行く末はといえば・・・・・
今は「矯正施設」と言うのが沢山出来た。
「世の中に適応不可能」とみなされた方々が、学校の如く生活を伴にしている。
しかし、何となく金儲けの道具として隔離されているようで、可哀そうな気もする。
施設もある意味では「理事長の為の営利活動」をしているに過ぎないからである。
昔、近所にまさとし君と言う、その種類を持った方が住んでいた。
小さな時の記憶・・・・・・
あまり鮮明に憶えていないが・・・・・・
三分刈の坊主頭で、何時も作業ジャケットみたいなものを着ていた。
そんなに背の高くない方だと憶えて居る。
まさとし君は、当時坊ちゃん育ちで我侭で世の中に馴染めなかったワタシの一番の味方だった。
朝方保育園に行く時、保育園が終わってから
「油屋の息子のお通りだぞ!」
大きな声をあげながら、ワタシの手を引っ張り送り迎えをしてくれてた気がする。
今考えれば、その様はSPを付けて居た感じもした。
まさとし君が何故、ワタシにSPもどきの行為を行って居たのかと言う理由は
①ワタシの家族からお小遣いをもらっていた
②その当時お店をやっていておこぼれをよくもらっていた
③ワタシの叔母さんが年頃だった
こんな感じで家族から聞いていた。
ワタシの街にはもう一人しーちゃんと呼ばれていた女性も居た。
彼女もまさとし君同様の方。
よくワタシがまさとし君とバイバイするのを見計らうように、訪ねてくれ、遊んでくれた。
四十年程前の「古き良き時代の光景」であろう。
しかし・・・・・
ワタシが小学校低学年になった頃・・・・・・
「お世話になりました」と彼等は遠く離れた施設へと旅立ってしまった。
今でも、大粒の涙が止まらなかった事を思い出す。
あの頃は、どんな人間でも平等に、隔離される事無く共生してきた。
しかし、世の中の流れか・・・・・・
果物や野菜を選別するが如く、人間まで選別・隔離する状況になってしまった。
確かに一緒に生活する人は大変だと思う。
少なからずワタシも現場を見たり、体験したりして来たので。
でも、ワタシの友人で関与先のある方は、未だに隔離せず、ある意味戦い・共生している。
それを考えると・・・・・・
差別用語がどうのこうのと垂れ流す、ヒステリックな輩達にモノ申し上げたい。
言葉じゃなく行為をもっとお考えになったらいかがですか?
貴方達はそんな方々と100%共生出来ますか?
変に言葉を縛るから、差別が更に拡大するのですよ!
差別など無かった、あの和やかで愛に溢れていた時代はもう来ない。
言葉を更に縛り続けるこの国のお利口さん達が居る限り。
愛嬌のある「与太郎」は、もう帰って来ないのである。
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